日本のマラソンランナー、金栗四三は1912年のオリンピックで、マラソンの途中で姿を消した(途中で引き揚げ、黙って日本に帰った)
1967年、金栗は完走の機会を与えられ、54年8か月6日5時間32分20秒というタイムで完走した
1967年、金栗は完走の機会を与えられ、54年8か月6日5時間32分20秒というタイムで完走した
半世紀経っても、このタイムには勝てないんだな
「長い旅でした。その間に結婚して、6人の子どもと10人の孫ができました。」
台本を読んだのか、彼自身の機転なのかわからないが、すごくおもしろい
台本を読んだのか、彼自身の機転なのかわからないが、すごくおもしろい
地元の伝説によると、ある家庭の庭に突然現れ、パンとラズベリージュースをもらったという
近くに、この記念碑があるよ
1位になるよりも、それ以上の名声を得ることができた
これは戦略的勝利と言えるな
これは戦略的勝利と言えるな
彼がレースを始めてからゴールするまでの間に起こったことを見てみよう
2つの世界大戦
1912年、ゴードン・ベネットカップ(権威のあるレースのひとつ)の優勝者の速度は、時速78.77マイルだった
1967年には、戦闘機は音速の2倍の速度を出せるようになり、X-15はマッハ6を超え、50マイル以上の高さを飛行するようになった
通信は、重くて高価な真空管の「無線電信」からトランジスタラジオに変わった
2つの世界大戦
1912年、ゴードン・ベネットカップ(権威のあるレースのひとつ)の優勝者の速度は、時速78.77マイルだった
1967年には、戦闘機は音速の2倍の速度を出せるようになり、X-15はマッハ6を超え、50マイル以上の高さを飛行するようになった
通信は、重くて高価な真空管の「無線電信」からトランジスタラジオに変わった
1920年、彼は2時間48分45秒6という、より伝統的なタイムでオリンピックのマラソンを走った
やっと自分が競えるオリンピック選手が現れたな
最初は、セントルイスオリンピックのマラソン大会の余興かと思ったが、その余興は1904年だったわ
これを覚えておけば、もし自分がマラソンを完走したら(可能性は極めて低い)、オリンピック・マラソン・ランナーのタイムを破ったって言えるな
彼はゴールしたところからスタートできたのか、それとも全く新しいマラソンを走ったのか?
そうであれば、54年とかいうタイムではなく、通常のタイムが出るはずだから
そうであれば、54年とかいうタイムではなく、通常のタイムが出るはずだから
くっそー、それでも僕より速い
もしまだなら、ギネスブックに載せなくちゃ
話としてはおもしろいけど、厳密には乗り物に乗ったり、コースを外れると失格になるから、本当の意味で有効なマラソンのタイムとは言えないんだよ
もし走り始めるのにもう一つ理由が必要なら……決してビリにはならない
54年8か月6日5時間32分20秒を越えない限り、だけどここまでくると別の忍耐が必要だな
54年8か月6日5時間32分20秒を越えない限り、だけどここまでくると別の忍耐が必要だな
ああ、ジョークか!
モンティパイソンのスケッチにこれに似たやつあったよね
オリンピックかくれんぼ選手権だね
近道だったのかもね
この投稿へのコメント
韋駄天やね
>途中で引き揚げ、黙って日本に帰った
これはちょいと誤解があるな
本人は黙ったというよりも「棄権扱いで決まりだろうなあ…」と思ってそのまま帰国した
実際は大会運営は状況を把握していなくて「レース中に行方不明」という扱いで、記録もそう記述されてる
金栗氏がゴールインした時、放送は「金栗選手、ゴールイン!これによりマラソン競技の終了を皆様にお知らせ致しますとともに、1912年ストックホルムオリンピックの全日程が完了致しましたことをここに宣言いたします!」と述べたそうな。
「厳密には乗り物に乗ったり、コースを外れると失格になる」
逆にそれを証明しなければ失格にはならないんだな
口裏を合わせれば公式タイムにできそう
それが証明できなくても、子供がいる時点で他の人に触られたんだから失格でしょ
ゴールするまでに飛行機や車に乗ってるからルール的にアウトでしょ。これ認めたらみんなバイクでゴール目指すよ。
ラズベリージュース?レモネードじゃなかったっけ?と思って調べたらラズベリーのレモネードって出てきた
>>ラズベリーのレモネード
餃子味のラムネみたいなものか。
なんだギネスに乗ってるじゃん
longest time to complete a marathon
Who
SHISO KANAKURI
What
54:249:5:32:20.3 YEAR(S):DAY(S):HOUR(S):MINUTE(S):SECOND(S)
Where
SWEDEN (STOCKHOLM)
When
20 MARCH 1967
タイムがすごくて代表に選ばれたけど
当時日本は土の地面だし涼しくて、現地のアスファルトの道路の熱い照り返しと気温にまで倒れて
コースの近隣住民に助けられて気絶から覚めた時にはレースが終わったあと
日本に戻ってから走りきれなかったゴールできなかったのが後悔
毎日のように走り続けて生きてきて、そのこと知られてゴール用意してもらえて、招待された
結果があの言葉なんだよな
おおー、詳しくてたすかる
そういうお話だったのね
ありがとありがと!!